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ツーバイフォー耐火10周年記念セミナー

市民権を得つつある耐火木造
〜過去から未来へ

東京都市大学工学部建築学科 教授 小見康夫氏

東京都市大学工学部建築学科
教授 小見康夫氏

1985年東京大学工学部建築学科卒。1995年東京大学大学院博士課程修了、博士(工学)。設計事務所設立、A/Eワークス協同組合設立等を経て、2005年 武蔵工業大学工学部建築学科講師、2008年東京都市大学准教授、2013年より現職。専門は建築構法・建築生産。主な著書に、「これからの木造住宅1 計画と設計(丸善)」「耐火木造[計画・設計・施工]マニュアル(エクスナレッジ)」「3D図解による建築構法(市ヶ谷出版社)」(いずれも共著)などがある。

日本ツーバイフォー建築協会とカナダ林産業審議会が2003〜2004年に取得した協会耐火認定により、初めて耐火木造建築を造ることが可能になって丸10年が経過しました。
「十年一昔」といわれるだけの月日が経過したことになりますが、一方で、都市の長い歴史から見れば10年はほんの一瞬の出来事ともいえます。
そこで、少し長いスパンで耐火建築と木造について考えてみたいと思います。

明暦の大火 vs ロンドン大火

都市火災の歴史に関する本の多くに登場するのが、江戸時代初期に江戸の中心部で起きた地震・戦争・火災を除けば日本史上最大の火災といわれる明暦の大火です。今から350年余り前の1657(明暦3)年3月2〜3日(旧暦1月18〜19日)にかけて発生・延焼した3件の大規模火災の総称で、北西の強風に煽られてそれぞれ南へと燃え広がった結果、当時の江戸の市街地の60%が焼け、5万とも10万とも言われる死者を出す大惨事になりました。

図1 明暦の大火を描いた田代幸春作「戸火事図巻」(江戸東京博物館所蔵)
図1 明暦の大火を描いた田代幸春作「江戸火事図巻」
(江戸東京博物館所蔵)

このため、4年後の1661年に出されたお触れでは、新たに茅葺き・藁葺きの家屋を造ることが禁止されましたが、その後も大火は幾度となく繰り返されました。江戸時代を通じて江戸のお膝元での大火は100回近く起ったといわれていますが、結局、本格的な防火都市が実現されることはなく、火事に対しては早期発見と避難技術の向上といった対処療法が中心で「火事と喧嘩は江戸の華」という独特の諦観が生まれることになりました。

明暦の大火からわずか9年後の1666年9月2日未明、ロンドン中心部「シティ」で発生した火事は4日余り燃え続け、ヨーロッパ史に残る「ロンドン大火」となりました。火は市壁内の8割、1万3000余りの家屋を消失させましたが、死者は僅か数人だったと報告されています。

図2 ロンドンの大火を描いた挿絵「Great Fire Of London」(Robert Chambers著「Book of Days」より)
図2 ロンドンの大火を描いた挿絵
「Great Fire Of London」(Robert Chambers著「Book of Days」より)

その前年、同じシティの市壁内のペストによる死者が約1万人だったことを考えれば、人的被害は限りなくゼロに等しかったといえるでしょう。当時のロンドンは産業革命前夜で人口が急増し、庶民の多くは木造密集地域に住んでいましたが、発展を続ける鉄鋼産業の燃料用途で森林資源が枯渇し、少しずつ煉瓦造などに建て替えられつつありました。また木造であっても冬の寒さ対策のため窓は小さく、壁や床に煉瓦や石が用いられることも少なくありませんでした。さらに、街には煉瓦造や石造の教会や学校、あるいは広場などが点在していました。こういったことから火事の延焼速度は極めて遅く、明暦の大火とは大きく異なる結果になったと考えられています。ロンドンではこの大火をきっかけに「煉瓦造もしくは石造」による厳しい建築制限が行われ、現在に続く近代的街並みの原型が形成されていきました。

ほぼ同時期に洋の東西で起った大火のその後を比較すると、何度も火事に遭いながらも、大都市で木造を諦めなかったわが国の特殊性が見えてくると思います。

煉瓦造から鉄筋コンクリート造へ

明治になっても相変わらず東京では火事が頻発します。今から140年程前の1872(明治5)年2月26日に起きた祝田橋大火を間近で体験した大隈重信らは、欧米のような不燃化都市を目指し、お雇い外国人のウォートルスの設計による銀座煉瓦街の建設を進めました。その結果、銀座大通り、数寄屋橋通りには煉瓦造に漆喰を塗った2階建て洋館による街並みが出現しました。

図3 「東京銀座要路煉瓦石造真図」(二世歌川国輝・画 伊勢屋兼吉・発行 東京都立図書館所蔵)
図3 1873(明治6)年の銀座煉瓦街を描いた
「東京銀座要路煉瓦石造真図」(二世歌川国輝・画 伊勢屋兼吉・発行 東京都立図書館所蔵)

明治時代には、このほかにも多くの煉瓦造建築が全国各地に造られますが、地震国のわが国にあっては耐震性の問題があり、そのほとんどは後の地震被害などで壊されてしまいます。事実、銀座煉瓦街も1923年の関東大震災で壊滅し、およそ50年でその幕を下ろしました。

庶民の住宅は相変わらず木造でしたが、都市部に煉瓦造を根付かせることができなかったわが国では、これに代わる耐震性・耐火性に優れた構法として明治末期、当時の最新技術であった鉄筋コンクリート造を導入します。1911(明治44)年に竣工した「三井物産横浜ビル」はわが国初の総RC造事務所建築で、100年以上経った今も健在です。

図4 最初の総鉄筋コンクリート造事務所ビルである三井物産横浜ビル 遠藤於菟・酒井祐之助設計 1911(明治44)年竣工(横浜都市発展記念館所蔵)
図4 最初の総鉄筋コンクリート造事務所ビルである三井物産横浜ビル
遠藤於菟・酒井祐之助設計 1911(明治44)年竣工(横浜都市発展記念館所蔵)

ただし、現在は耐火建築の代表的な存在であるRC造も、当分はまだ馴染みが薄く、これらが一般的な耐火建築構法として全国津々浦々で公共建築や事務所建築等に広く用いられるのは主に戦後になってからのことですから、(戦時下の中断があったとは言え)それまでに数十年を要したことになります。

一方同じ明治期、木造ながらも厚い土壁と漆喰、屋根瓦などで防火性能を高めた「蔵造り」の街並みが出現します。1881(明治14)年に東京府知事松田道之が公布した「東京防火令」では、火災頻発地区の主要道沿いを煉瓦造、石造、蔵造に限定し、屋根を瓦や金属などの不燃材で葺くことを義務づけた結果、日本橋の大通り沿いには蔵造りの街並みが形成されました。これらは現存しませんが、その影響を受け、川越市では1893(明治26)年の大火で市街地の3分の1を焼失したのを機に、蔵造りによる復興がなされました。こちらは今も健在で観光名所となって賑わっています。

図5 現存する蔵造りの街並み(川越)
図5 現存する蔵造りの街並み(川越)

関東大震災、東京大空襲から現在まで

こうして少しずつながら、江戸時代のような大火を撲滅しつつあったかに見えた東京ですが、1923(大正12 )年9月1日の関東大震災、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲に遭い、明暦の大火をも上回る大規模火災で2度も灰燼(かいじん)と化します。その大きな要因が、未だ都市の大部分を占めていた木造建築にあったことは紛れもない事実です。

それらの経験から、1950年に制定された建築基準法では、大規模または中高層建物、特殊建築物、防火地域等の多くで木造が制限されることになりましたが、その後も低層住宅においては大量の木造建築が供給され続けました。1974年には枠組壁工法がオープン化され、木造の一般構法の仲間入りを果たします。消防力の強化の恩恵はもちろんですが、ラスモルタル壁や防火サイディング、カラーベストなどの防火材料・構法の開発や、石膏ボードをはじめとする内装不燃化などにより、木造住宅はその防火性能を大きく向上させ、これらの甲斐あって、地震などの災害時を除けば大火と呼ばれるものは沈静化しました。1976(昭和51)年の「酒田市大火」を最後に現在まで40年近く発生していません。

そして、1987年に準防火地域において木造3階建て住宅(後に共同住宅も)が建設可能になったのを皮切りに、燃えしろ設計による木造準耐火建築物の実現、建築基準法の性能規定化という「規制緩和」の追い風のなか、21世紀になってついに木造耐火建築が実現した訳です。幾度となく大火を経験しながらも、都市での木造建築を決して諦めなかったわが国で、ようやく耐火の技術が追い付いたのだといえます。ですから10年経ったといっても、それはまだ入り口に過ぎません。地球温暖化対策というさらなる追い風が少なくとも今後数十年は吹き続けるでしょうから、都市部において耐火木造は住宅はもちろん、非住宅分野も含めまだまだ増えていくことでしょう。20年後、30年後に向けたますますの発展を期待したいと思います。

 

平成27年3月11日(水) 木材会館 7階大ホールにて開催

 

(2015年4月1日掲載)

 

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